般若心経の部屋
写経をしていても、仏前、巡礼にでてお経を上げていてもただありがたいと思うのも大事ですが、中身を知って噛み締めることも大事です。
徐々に順を追っていきたいと思います。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)

般若心経と一口に言いますが、詳しく言うと経題は標題のとおり
仏説摩訶般若波羅蜜多心経」となります。

一番最初に「仏説」とありますが、これは、文字通り、「仏の説いた仏の説法」であるということです。

しかし8万四千といわれるたくさんのお経を、仏が実際に全部説いたということはありえません。
それでは、仏教と言うのは、うそかと言うことになりますが、そうではなく、仏の根本の思想に沿っている経典であるならば、仏説と言ってさしつかえ
ないということが、竜樹という人の書いた「大智度論」(だいちどろん)という般若経の注釈書などに書いてあります。

それではどういう考え方が、仏の根本の思想かといえば、「
縁起の法」 すべてのものは、縁起によって起こる。
という考え方です。
この考え方をはずしていなければ、仏説であるといえるようです

般若心経もそういう意味で仏説と考えてよいとおもいます。

摩訶」は、大きい、りっぱなという意味のことばです。   
マハートマ・ガンジーをご存知でしょうね。マハートマとは、偉大な魂ということです。

般若」は、仏の智慧という意味です。
ですから、仏智(ぶっち)と訳するわけですが、「五種不翻」といって、内容のふかい言葉や、秘密の言葉などは、翻訳しないほうがよいという5種類
のことがらがあります。それにならって、そのまま音訳で般若(はんにゃ)としたのです。


波羅蜜多」というのは、梵語で、パーラミーター。向こう側に着く。「彼岸に着く」「仏の国に着く」ということなのです。

ですから、仏のすぐれた智慧によって、仏の国に着く。というお経ということで、「般若波羅蜜経」となるわけです。

般若経」というのは、実はたくさんあるのですが、そのうちもっとも中心的なものということで、心という字を加えて、
般若波羅蜜多心経」と名づけられたのです


観自在菩薩行深般若波羅蜜多時(かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみたじ)


玄奘三蔵より古い訳には、「観世音菩薩」と訳されてきました。
つまり「観音様」のことですね。
般若心経を説かれたのが観音様ということです。

」は、行なう、実践する、修行するということ。
つまり、この段の訳は、
観音様が仏の智慧によって仏の国にいくというその修行をしていらっしゃったときに、ということになります。



照見五蘊皆空度一切苦厄(しょうけん・ごうんかいくう・どいっさいくやく)


照見」とは、はっきり照らして見る、見きわめるということ。
五蘊」とは、人間や人間をとりまく世界を構成している五つの力、作用のこと。
{蘊}(うん)あつまりということ。
{色蘊}(しきうん)目に見えるものの世界のこと。赤や白の色のことを顕色(けんじき)形の事を形色(ぎょうじき)といい、両方合わせた世界が色蘊の世界。
{受蘊}
(じゅうん)そうした世界を見つめたとき、「きれいだ」と受け止める働きが私たちにはあります。それを、「受」という作用ーーー「受蘊」
{想蘊}
(そううん)受け止めると、頭の中に伝達します。そのことを「ものを想う作用」ということで想蘊
{行蘊}
(ぎょううん)次に実行に移りますね。その実行する力を行蘊
{織蘊}
(しきうん)そうした行為をとおして最後には認識の作用が働いてきます。

色・受・想・行・織という五蘊=五つの力が人間精神の基本にあるのだということ。
「度」は、渡ると同じ意味で、乗り越える、渡るということです。
つまり、この段は、
観音様は、
すべてのものは移ろい変わっていくということをはっきりと見きわめなさった
           ↓      ↓     ↓     ↓     ↓     ↓    
そのため物にこだわることから生じる苦しみや災いというものは、全て乗り越える事ができたということなのです。


舎利子色不異空空不異色(しゃりしーしきふいくうくうくうふういしき)

舎利子(しゃりし)よと呼びかける事で観音様の説法がはじまります。
舎利子よよくききなさい。
目に見えるものは何も見えない実体の無い「空」と異なる事はないし逆に何も見えない実体のない「空」という世界は、今目の前に見えるものの世界と異ならないのである。
ここで「空」と言う言葉が幾度と使われますが、「空」とは何なののでしょう?
「空」=からっぽ・何も無い世界と解釈したら全くのまちがいです。
「空」というのは、なにものにもこだわらないということなのです。
私たちがもし、「自分が」「この教えこそ」とこだわったときには、そのこだわりによって自由を得る事が出来なくなるのです。
自分にとらわれる事を「人我」
といい、教えにこだわることを「法我」といいます。
この「人・法」ニ我があるかぎり、仏の智慧「般若」を得る事はできません。

色即是空空即是色受想行織亦復如是(しきそくぜくうくうそくぜしき・じゅそうぎょうしき・やくぶにょぜ)

「色は空にことならず、空は色に異ならず」と説き、今度は、「色は空そのものであり、空は色そのものである」と肯定する。
受想行識もまた亦復如是(かくのごとし)なのである。


舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減 (しゃりしぜしょほうくうそうふしょうふめつふくふじょうふぞうふげん)

是故空中無色無受想行織(ぜこくうちゅうむしきむじゅそうぎょうしき)

無眼耳鼻舌身意無色声香味触法(むげんにびぜつしんにむしきしょうこうみそくほう)

無眼界乃至無意織界(むげんかいないしむいしきかい)

無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死亦(むむみょうやく・むむみょうじん・ないしむろうしやく・むろうしじん)

無苦集目滅道無智亦無得(むくしゅうめつどうむちやくむとく)

以無所得故菩提薩垂依般若波羅蜜多故(いむしよとくこぼだいさつたえはんにゃはらみつたこ)


つづく

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