観音信仰と観音様

天竺(インド)の観音信仰の成り立ちは、紀元1世紀ころと考えられています。

成立当初のかたちは、聖(正)観音像でしたが、6世紀以降、ヒンズー教の影響もあって、多面多臂(タメンタヒ)の密教的変化観音があいついで成立しました。

中国への観音信仰伝来の年代は不明ですが、五世紀以降、観音造像がさかんとなって、先祖追善や現世利益の信仰として親しまれ、後には「家家観世音、処処阿弥陀仏」のことわざが生まれるまでになり、中国民衆信仰の中心を占めるようになりました。

日本の観音信仰は、飛鳥時代に伝来したと思われています。
奈良時代には多面多臂の変化観音像も造られ非常に盛んになりました。

当時の観音信仰は、鎮護国家から日常的な至福や除災など、現世利益が中心でした。

しかし、平安時代の10世紀頃から浄土信仰の発達を背景に観音信仰も来世的色彩を帯び、原是利益に加えて、六観音による「六道抜苦」や、「阿弥陀脇待」(アミダキョウジ)としての「来迎引摂(ライゴウインジョウ)にの利益も説かれました。

「現当二世の利益を兼ねる観音への帰依は、毎年一月十八日に仁寿殿(ジジュウデン)で観音像を供養する宮中ニ間観音供をはじめとするさまざまの観音の徳をたたえる(観音講)、観音を本尊として罪を懺悔する観音懺法(カンノンセンポウ)など、多くの観音の法会を発達させました。

また、10世紀末以降、京都や畿内の観音像を安置する寺院への貴族や民衆の参詣が流行し、ここから、観音霊場を巡礼して験力をみがく経験者も現れました。

観音菩薩の三十三身にちなんで畿内周辺の代表的観音霊場三十三所を巡る西国巡礼の確実な例は、1161年(応保1)の園城寺(オンジョウジ)僧覚忠(カクチュウ)、に遡ります。

13世紀には坂東三十三所、15世紀には、秩父三十三(後に三十四所に)所が成立し、まあ、15世紀頃から修験者の他に武士や、豪農も参加する巡礼大衆化が始まりました。

この過程で札所の巡礼や服装・御詠歌など今日見られる巡礼のスタイルの原型が定まりました。

近世には、全国各地に100に余る三十三所が形成されました。
観音菩薩は、現当二世にわたる幅広い利益によって民衆信仰の代表的存在となりました。

それだけに観音信仰の文学への投影も甚大で、その霊験利益譚は、「今昔物語集」以下の仏教説話集類に多数収録されるほか、「長谷寺験記」のごとき単独の観音霊験集も製作されました。